自民、民主と並ぶ第3極作りを狙う 合流を仕掛け、安倍担ぎ出しも画策 石原グループとの合流・分党の果てに

12年衆院選で野党第2党に躍進した維新
実現しなかった「みんなの党」との合併

 約8年前の2012年12月の衆院選で、自民党が民主党から政権を奪還した。国政進出を企図して9月に大阪維新の会から衣替えした日本維新の会(旧)は、この選挙で比例区の総得票が自民党に次いで第2位の1226万票、議席数は解散時の7から54の約8倍増となる。いきなり民主党と並ぶ大勢力に躍進した。

 渡辺喜美(元行政改革担当相。現参議院議員)が率いるみんなの党も、6から18に、議席を3倍に伸ばした。09年8月結党のみんなの党は、10年の参院選で10議席を獲得し、比例区では794万票を手にした。渡辺がそのころ、維新や橋下徹(当時は大阪維新の会代表兼大阪府知事)との関係について語った。

 「大阪維新の会が誕生したのはみんなの党がきっかけですよ。10年の参院選でみんなの党が比例区で800万票を獲得したのに触発されて、橋下さんから『11年の統一地方選を一緒に』と申し入れがあり、『維新公認・みんなの党推薦』というジャンルを作って一緒にやったという経緯がありました。その後、維新が国政政党になるとき、みんなの党は政党のコンテンツを提供した。維新八策はみんなの党のアジェンダをかなり採用しています」

 12年、国政進出を目指す維新とみんなの党との合併プランが持ち上がったが、実現しなかった。渡辺が続ける。

 「12年8月、橋下さんが『みんなの党を解党して大阪維新に合流したら』と言ってきました。当時、みんなの党は地方議員が300人くらいいたし、参院選でも800万票をもらっていたので、『解党は有権者への裏切り行為になるので、できません』とお断りした。落とし所は、合流ではなく、選挙での相互推薦といった形を考えていた。私がみんなの党の代表を降りた後の14年9月ころ、橋下さんから『あのときのおわびを』という話がありました。ちょっと図に乗りすぎていたという反省を込めてということだったのでは」

 大阪府議会議長だった浅田均(現参議院議員・日本維新の会政調会長)が、みんなの党との協議の舞台裏を振り返った。

 「政策面では問題がなかったと思います。一緒にやるのはよかったんですが、向こうは『みんなの維新』で『渡辺代表』みたいな形を打ち出しました。12年12月の衆院選の結果を見たら、維新1226万票、みんなの党525万票です。民意を受けて新しい党を作るのであれば、『みんなの維新』ではおかしい」

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