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せかいいちおおきなうち

どうしても我が家が欲しかった
でも、最高に楽しかった時間は

 子どものころから自分の家が欲しかった。生まれた松山の家は借家だったし、その後、大学を卒業するまで20年近く暮した新潟の家も借家だった。ときどき父から大家に家賃を届ける役を仰せつかったが、子ども心にもかすかな屈辱感があった。大学を卒業して東京の映画会社に就職した。私の受験したのは、監督か脚本家かプロデューサーになる芸術職だったが、私はプロデューサーになろうと思った。

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